日本を代表する食料基地として全国に知られる十勝は、豚丼や酪農製品、十勝ワインなど魅力的なグルメが数多くあります。
そんな十勝も開拓されるまでは存在していないわけで、開拓の歴史を知らずして語ることはできないでしょう。
中でも十勝開拓を支えた依田勉三と晩成社の存在は見逃せません。
六花亭の銘菓「マルセイバターサンド」とも関わりが深いので、注目して見ていきましょう。
十勝開拓の先駆者、依田勉三とは
十勝開拓の先駆者として知られる依田勉三は、現在の十勝の歴史をつくった人物です。
若い頃から北海道開拓の志を持ち、北海道の調査を経て帯広に到着し開拓を進め、今では十勝開拓の父と言われています。
依田勉三の生い立ちや開拓での功績を見ていきましょう
依田勉三の生い立ち
依田勉三は1853年6月に伊豆国那賀郡大沢村の依田家の三男として生まれました。
若くして両親を亡くしましたが、松崎町の私塾「三余塾」、19歳の時には英学塾に通い、学びを深めていきます。
英学塾では後に開拓を共に進める鈴木銃太郎や渡辺勝と出会い、彼の転機となりました。
慶應義塾に通い、福沢諭吉らの影響を受けて北海道開拓の志を立てます。
病気のために中退し、ふるさとに戻りますが1879年には、英学塾で出会った渡辺勝を招き私立豆陽学校を開校しました。
同年、従妹のリクと結婚して、その年に北海道開拓の意思を固めたと言われています。
1900年前後の十勝開拓
1881年に依田勉三は北海道の調査を行いました。
函館から根室、釧路、十勝、日高を調査し一度調査を終えます。
1882年に晩成社を設立し札幌県庁に開墾の許可を申し出て帯広を開墾地に決め、1883年から晩成社一行による帯広開拓が本格的に始まりました。
開拓当初は、野火やイナゴの大群、天候不順、獣害などに悩まされ、1892年までは大きな成果を上げられず開墾は暗礁に乗り上げます。
1892年からは状況が変わり農作物の収穫や牧場の開設などで好転していき、1897年には社有地の一部開放に合わせて移民が殺到したと言います。
1902年にはバター工場を創業し現在の十勝を代表する産業となりました。
1925年に依田勉三は亡くなりましたが、1933年に北海道で7番目に市制が施行され十勝は開墾を果たすのです。
晩成社の功績
依田勉三と兄・佐二平らが設立した結社「晩成社」は、北海道開拓を進める結社のひとつとして、帯広の開拓を成し遂げました。
決して簡単な道のりではありませんでしたが、様々な障害を乗り越えながら十勝を開拓した功労者です。
晩成社は、開拓を進めただけでなく様々な事業にチャレンジしたことでも知られています。
ハム製造や馬鈴薯でんぷんの研究、バター工場、缶詰工場、練乳工場など様々な事業を行うものの、いずれも失敗に終わりました。
しかし、晩成社が失敗した事業が今では十勝を代表する産業となっています。
晩成社の由来は大器晩成であり、最後には必ず入植を成功させるという意味が込められています。
まさに大器晩成で晩成社が切り拓いた産業が現在、花開いています。
六花亭「マルセイバターサンド」は晩成社のバターが由来
十勝名物のひとつ「マルセイバターサンド」を一度でも聞いたことがある人が多いのではないでしょうか。
マルセイバターサンドは、帯広市に本社を持つ六花亭が製造販売している銘菓です。
商品名は、晩成社が北海道ではじめて商品化した「マルセイバタ」が由来になっています。
〇に成が入ったパッケージも当時のデザインを復刻し、晩成社の歴史が込められています。
晩成社は連続テレビ小説「なつぞら」にも登場
十勝を舞台にした連続テレビ小説「なつぞら」で、依田勉三率いる晩成社が触れられています。
草刈正雄さん演じる泰樹が、バターづくりを夢に描くようになったきっかけが晩成社でした。
劇中で同じく十勝に入植した泰樹にアドバイスをしたのが晩成社と描かれています。
また、ドラマに登場する菓子店「雪月」は、六花亭か柳月がモデルと推測されています。
まとめ、十勝の木材産業発展にも功績
依田勉三と晩成社は、十勝開拓を果たし十勝の歴史をつくりました。
大器晩成を掲げた晩成社は、困難な状況を乗り越え多くの失敗をするものの現在の十勝を支える産業に確かにつながっています。
晩成社は木材工場の経営にも挑戦し失敗してます。
しかし、現在の十勝では大きな木材製材工場も多数あり、十勝の木材産業発展のきっかけになりました。
六花亭の銘菓「マルセイバターサンド」にも歴史が刻まれ、その精神が今なお語り継がれる存在です。
現在の十勝をつくった人物として感謝と尊敬を忘れてはいけない人物ですね。